ゆとり主婦のタワゴト

20代後半の主婦です。日々思うこと、頭の中のこと、文書にしてすっきり自己主張したいとおもいます。

20代後半、千葉県在住の主婦です! これまでの生活の中で感じたこと、日々のことを書いています☆

晴れの日

の話ではなく…

ツイッターをみていたらリツイートで回ってきた

「〇〇の社長も娘には4万円の振袖を買って終わったら売って小遣いにしろといっていたんだ。振袖にお金をかかるなんて」

みたいな内容のツイート。他にも類似した内容の意見をちらほら目にした。

 

私はこの、GU、ニトリを筆頭とするなんでも使い回し使い捨ての感覚があまり好みではない。その考えを否定するわけではないのだが、成人式の振袖にまで及ぶのか…と少々驚いたのだ。お正月と並ぶ1月の大行事。成人というひとつの節目に、両親の方が張り切って用意している家庭も多いだろう。が、「それより高価なものが欲しければ、自分でバイトして買え」という意見もあった。娘が親に無理強いして買わせるのは良くないし、高ければいいというものではないけれど、でもなんだか情のない意見に思えてしまう。

 

私は私物の着物で成人式に出たが、十三詣り、成人式、大学の卒業式と三度着る機会があった。十三詣りの着物を選ぶ際、三越の呉服売り場の人がうちへ来て二つまで絞った。あとはあなたが好きなのを選んでと言われたが、選んだ方が高かったらしい。親は冗談まじりで「大学の袴の時まで着なさいよ!」と言っていたが本当にその通りになった。

良いものというのは、つまりこういうことが出来るところにあるのではないだろうか。柄も仕立ても良ければ、成長したからと言って、ダサ〜い、飽きた〜はあまり起きないように思うが、そのリスクを回避して、年齢ごとに好みの物を選ぶのも賢いだろう。しかし、同じ物をそれぞれの節目に着て写真を撮るというのもなかなかの趣があるではないか。なにより家族も交えて楽しめる。

 

ちなみに、成人式で女子が首回りに巻くモコモコ。あれもレンタルではなく購入した。確かフォックス?(うろ覚え)母が、レンタルの薄っぺらいフェザーは、せっかく着物が良くても台無しだからといって買ってくれた。その時はふーん、と思って聞いていたが、いざ式に出てみると母の言っていた意味がよく分かったし、何より写真になると明らか。薄いフェザーはぺらっとしているのでみんな裏地が出てしまって、むしろ寒そうにみえるのだ。

 

結婚した時には、嫁入り道具としてオーダーで桐箪笥を作ってくれた。それこそ着物などを保管するため。まだ着用の機会はないが家紋入りの留袖も作ってもらい、その箪笥にしまっている。

 

我が家は祖父母と暮らしていたせいもあってか、節目の行事の持ち物や着る物には割と口うるさい家庭であった。お雛様も今ではほとんど売っていない七段飾りの豪華なものだ。

子供の頃は、もーまたぁ?うるさいなぁ…と煩わしく聞いていたが、今の年齢になって感謝している。こだわるには意味があるし、良いものには時が経っても価値が残る。使い捨て前提のものは、それ相応なのだ。普段着などにはその考えを取り入れても良いと思うけれど、伝統的な一生に一度の晴れ舞台でも「どうせ今回だけなんだから、お金をかける方があほらしい」というのが先行してしまうのはなんだか侘しくないだろうか。

 

現在注文で家作りをしており、今と昔、首都圏と田舎の暮らしの中で、全てを自分が育って来たようにはできない現実に直面している。先ほど述べたような七段のお雛様などは旦那の母から「女の子が生まれてからでも良いんじゃない」とやんわり牽制された。(それでも飾れる間取りにしてしまったが笑)

だからといって、じゃあそれらも断捨離してしまうのかとなると、それは絶対に嫌だ。お雛様も単に立派だからとっておきたいわけではない。未だに両親が飾ってくれるほど、家族みんなが大切にしてきたものだし、お顔もとっても可愛いのだ。良いものを買う意味というのは確かにあると思う。

またまたインスタの話

自分のダサコーデを毎日アップする人、自宅の庭で撮ったりしますよね。でもやるならまずはその雑草抜いたら?

室内の白壁を利用するために土足で上がってる人は毎日拭いてるのだろうか…

あるいは玄関に入るための外階段に座ったり…気にならないのかな?

 

自分は着ずに、服を並べて撮る方もいるけれど、いくら新品とはいえ、靴を服の上に置いていたりするとえーっと思ってしまう。

育ちというか、家庭環境というか、衛生観念というか、バレてるのにいいのかな。

 

医者タレントとして活動している方が自分の子供の素っ裸写真を載せているのには本当に驚いた。自分の子供と他人様の子供しか写っていない写真、すべてスタンプで顔を隠していたけれど(賢明だと思うけど)、でもならもうあげなくていいと思う。自分も写っていないんだし、もはやスタンプ3つの写真をあげてどうなるの?

 

一般人でも、位置情報つけて住んでる場所もタグ付けして、子供の名前もかいて、鍵をかけてない人。事件にならないと分からないのだろうか。自分の子供可愛くないの?

 

トータルして感じるのはみんな想像力が足りないということ。指一本で気軽なぶん、代償のデカさはきちんと考えて想像しないと、全部自分の責任。いくら削除ができるとしても、先に保存されていたらどうにもならない。世の中悪い人はたくさんいるんだから、家族を自らの手で危険にさらすのだけは、早くやめた方がいい。

 

料理写真をアップする人

インスタに関するつつきどころは、個人的に多々あるのだが、そのうちの1つ「料理の写真をアップする人」について。

 

相当頑張っておしゃれな料理を作り上げたからアップした、なら理解ができるのだが、普通の大したことない家庭料理をあげる人が多い。

 

なんていうか「うちのお母さんのご飯の方美味しそう」みたいな。決して料理がずば抜けて得意な母ではない、普通のご飯だけどこの人のよりは美味そうだよねと思う。

 

家庭でできることには限界があると思うし、忙しい食卓で毎日粗を出さずに写真を撮ることはとても難しいと思う。ごちゃごちゃ並べてるうちに冷めそうだし。

 

箸やスプーンを刺したまま、茶碗と味噌汁が変な位置にあってどこが正面なのか分からない、ワンプレートでおしゃれにという努力が見えるけれど、皿の上に置いたスープカップの底とパン密着してるけど平気なの?で、これは結局おやつなの?ご飯なの?

 

ごはん、味噌汁、小さいサバの切り身と切っただけのトマト、まるで上京したて四畳半のアパート暮らしの人のご飯みたいなものをわざわざ撮って、シンプルご飯とタグ付けしてるの、物は言いようの最たるや。。

 

パンにバターをぬり、黒豆をいくつかおいて「ダルメシアントースト」と言っていた人もいた。配給食…?監獄のお姫さまのアネゴを思い出してしまった。

 

なんていうか、ご飯の写真はその方の人となりが如実に表れていると思う。一枚の写真から読み取れることが多すぎる。

とりあえずお姑さんとか彼氏のお母さんには見つからないようにした方がいいと思う。

 

ちなみに、キャラ弁も好きではない。

食べ物で遊ぶなと言われ続けて育ったし、手袋などつけてるのかもしれないけど、あんなにこねくり回してたらなんだか汚い。本当に残りの食材はお母さんが食べきっているのだろうか…あんなに細かくきったノリの端切れ、全部拾って食べてるの?それもそれでなんか…でも捨てるのはもっとダメだと思うし。

仮に5時半に起きてキャラ弁をつくって、お父さんにもっと家事手伝って!と怒鳴るのなら、6時まで寝た方が賢明では…?

 

#あさごはん、で検索するともう「うそだろ」と言ってしまう。暇かよ。朝からこんな食うのかよ。せめてブランチだと言ってくれ…

 

女子分析シリーズ③

ありのまま生きていると人の嫉妬心を刺激し、反感を買うということを学んだ中学生の私。

高校、大学、社会人と成長していくうちにも、私が与える第一印象はさして変わらないということに気がつきました。


女の子っぽくてぶりっ子してそう、、、


女性というのは女らしさに過敏に反応し、同性であるが故敵対心に発展します。しかし、外見はなかなかどうしようもありません。いきなり身長が伸びたり、キリリとした顔つきに変わったり、なんてしませんよね。


じゃあどうするか…?私がとった対策は、


とことん毒舌

とことんハッキリ自己主張


内面をとにかく男性寄りに持っていくということ。
もともと、私は決して女らしい性格はしていません。見た目や好みこそ女性的でしたが、中身は男性的な要素の方が多かったと思います。


それでも見た目が宮崎あおい型の私は、第一印象や先入観による「女の子らしい」や「ぶりっ子」というイメージが、本来の性格を超えて定着してしまうのです。


普通に付き合っている友人はそのことを理解していても、意地の悪い人や何かケチをつけたい人は、自分たちの都合のいいように印象操作をします。そして実際に女の子らしい見た目をしている訳ですから、その印象操作が本当だと思われてしまいやすい。


ですから、こちらはその印象操作をさせないくらい、大袈裟に!とことん!女性らしさを見せないようにするのです。

そうすると「女の子っぽい見た目なのにめちゃめちゃ毒舌な子」というキャラの出来上がり。女性はこういうギャップが大好き!面白い人として受け入れられます。


本来毒舌というちょっとマイナス寄りな要素が、女性らしさとのギャップ効果によりプラスに変わるのです。

ギャップ、キャラが濃い、サバサバ、意外、、、

こういう類の言葉を女性は大好きだし、肯定するし、認めるし、面白がってくれます。

このキャラを面白がる人は1コミュニティに必ずいます。あの子は見た目はあんなだけど辛口で面白いんだよ、という噂が勝手に広まります。女性の口コミや噂の力をなめてはいけません。


実際に、会社の新人研修で相手の長所を紹介するという場面があったとき、私は

「笑顔で毒を吐くところ」
「黙って入れば可愛いのに黙っていないところ」

といった評価を受けました。
この文には、


笑顔、黙っていれば可愛い→外見、第一印象
毒を吐く、黙っていない→内面、性格


という外見と内面の要素が「なのに」という言葉で結ばれています。ここで強調されているのは、毒を吐く、黙っていないの方です。
笑顔や可愛いは反対語としてクッションの役割をしているだけで、毒を吐く、黙っていないの方が評価されているんです!


女性は外見と内面のギャップが強ければ強いほど、相手を肯定するのです。

 

子供ながらに頭を使い、人付き合いを円滑にするために生み出したこの方法は大人になっても、むしろ大人になってからの方が役に立っているかもしれません。

 

逆に柴咲コウ型で困っている人は、大げさに優しく、おっとりと女性らしさを強く押し出してみてください。

 

見た目は変えられませんが、うまく利用して人付き合いを円滑にしていきましょう。



女性分析シリーズ②

女のいざこざのすべての原因は「嫉妬」。

では、その嫉妬が原因でいじめられたり嫌われてしまう原因は…?


まず、ひとつ避けられないのは「相手の性格」ですよね。大人になっても意地悪な人は意地悪ですし、こちらからはどうしようもない部分もあります。でも同じように恵まれ、嫉妬心の対象になりそうな人でも標的にならない人もいる。

 

それはズバリ見た目!女性のいざこざなんて嫉妬が原因なのですから「見た目」という軽い要素で白黒が別れてしまうのです。

芸能人で例えてみましょう。あくまで容姿においての例えになります。


<<柴崎コウ型の女性>>
男顔、美人、凛々しい、濃い顔、パンツが似合う印象の方は標的になりません。

そう「男顔」の表現にもあるように、例え相手が女性であっても、少しでも男っぽさが絡む相手に女性は意地悪しません。相手をいじめたり貶めるような性格の方は、男性に対しては強く当たりませんから。
男っぽさを敵に回さないのは、男性には嫌われたくないし、相手ををいじめる理由をわかりやすく肯定するためです。

 

<<宮崎あおい型の女性>>
色白、童顔、かわいい、男性に好かれる顔。スカートの似合う女性。
女性らしい見た目の方は標的になります。女性らしさが詰まっていることへの嫉妬と、なにより「アイツはぶりっ子だ!」という単純な、だけどなぜか意地悪を正当化してしまう言葉を当てはめやすいから。
たとえば、本物の宮崎あおいは普通にしてても可愛くてモテますよね?そりゃ、そうなんです。でもそこに嫉妬を覚えて、アイツはぶりっ子だ!と言い始める人がいたとする。そうすると、ぶりっ子という言葉が当てはまってしまう。実際に可愛いから。
彼女にぶりっ子の気が一切なくても、男っぽさが含まれてない女性にはぶりっ子という言葉をぶつけやすく、意地悪をする理由として説得力が出てしまうのです。

 

私をいじめてきた彼女はまさに、凛々しい美人で声も大きく、男らしい子でした。対する私は色白で身長も小さめの薄顔。彼女はわかりやすく、「アイツはぶりっ子だ!」という攻め方をしてきました。中学生くらいの頃なんて、同じ制服を着て髪も染められませんし、持って生まれた気質と容姿で生活するしかありませんからね。当時は本当に、じゃあ私どうすればいいの?と絶望したのを覚えています。

 

今回の宮崎あおい岡田准一の結婚では、実際にツイッター上に宮崎あおいをやっかむ声がたくさんありました。もちろんツイッターなのでジャニオタの方々も多く利用しているでしょうし、相手はアイドル、女優が結婚よりもアイドル男性が結婚の方が余波は大きいものですよね。

とくに宮崎あおいの不倫に多く触れている人もいましたが、不倫相手とされている岡田准一の行動を責める声は見受けられませんでした。さらに言えば、彼女が不倫されたと言われている時期は高岡蒼甫もだいぶやらかしていましたよね。そういうのを考慮したことを呟いている人もほとんど居ませんでした。とにかく宮崎あおいみたいな不倫女と結婚するなんて…が多数だったように思います。いくら周りが騒いでも実力の伴ったスター同士、美男美女カップルに間違いないのですが、宮崎あおいというジャンルは容姿に限定しても女性の反感に触れやすいのだと思います。

 

前回の記事と今回の記事を要約するならば、周りに好かれ、家庭環境にも恵まれてる宮崎あおい型の女性は標的にされやすいということ。

 

でも家庭や見た目なんていう持って生まれたもの、どうしたらいいのでしょう…?私が子供ながらに試行錯誤し、学んだ対策は大人になっても通用し、上手な人付き合いをしやすくしていると思います。次回はその辺りを記事にいたします。

女子分析シリーズ①

私が、あれ?これ親友に嫌われてる?と自覚しだしたのは小6の頃。
そう、思春期突入直前。女子の友人関係が難しくなってくる頃だ。


それまでの私は成績優秀。クラス委員をやったり、女子だけでなく、先生とも男子とも仲が良く、順風満帆な小学生ライフを謳歌。世界は思い通り、余裕だぜと思っていた。

 

そんな日常のなか、キケンな影が忍び寄りはじめる。親友からの当たりがきつくなってきた。美人で面白く、人気者だった親友だが、中学に上がってからはいじめに発展してしまうほど、嫌われてしまった。親友だった子が突然いじめっ子に……よくある話だが、子供にとってはとても辛い現実。なんで突然?と訳がわからなかった。


小6…女の子は既にオンナ。

突き詰めれば、原因は大人の世界と一緒…そう、嫉妬!

この感情ほど厄介なものはない。


成績優秀、クラス委員、友達もたくさん、という私の学校生活のスペックだけでも彼女にとってはきっと面白くなかった。

それに加え、私は割と裕福な子供であった。当時の小中学性にとって憧れのギャルブランドを着ていたし、学区のない小学校に通い、家が遠かった私は朝は父に車で送ってもらっていた。家も大きく、祖父は社長。お手伝いさんや運転手さんもいた。

そういったことを、その彼女より精神的成長の遅かった私はなんの躊躇いもなく、日常の出来事として話題に出していたんだと思う。もちろん、その他の子たちはそんなところにいちいち反応していなかったので、私も気づかない。

ただ、美人で人気者の彼女にとってはある意味似た者同士の私に、彼女自身の力ではどうにもならない私の家庭生活スペックが気に入らなかったのだろう。成績や運動なら本人の努力で逆転もありえるが、住んでいる家や持ち物は当時の私たちにはどうにもならない。


学校生活のスペックでライバルだった子が、家庭生活のスペックで上をいっていたことが彼女の嫉妬を刺激し、私自身、それを鼻にもかけず、当然のことのように受け取っていることが、よりその嫉妬を増幅させたのだろう。 

 

そう、いっそ私が意地悪で自慢げな子供だったら当時のようないじめは起きなかったかもしれない。自分で言うのもなんだが、私はいい子だった。嫌いな子なんてそれまで一人もいなくて、みんなと仲良くしていた。欠点のないライバルをいじめることでしか、彼女の嫉妬を昇華させる方法はなかったのだ。

 

でも、完璧でもいじめられない子っていますよね?その違いは…??
次回の記事でお話ししたいと思います。

過去の記憶

大人になって気づいたことは、中学生の頃思っていたことと今思っていることは大して変わらないということ。未だに子供じみているのかもしれないし、中学生なんて結構大人なのかもしれない。

中学時代、仲の良い男女混合のグループ内の友達と付き合うことになったが、隠して!と言った覚えがある。まあそんなものは即バレるのが当たり前なのだが。好きな人ができた、とすぐに言える友達、堂々と手を繋いで登校する友達を小バカにしつつも、本当は少し羨ましかった。 大人になったいまこそ、その友達を「中学時代の元彼」と冗談で冷やかされても、「そーそー!」とノれるようになった。いい大人が、中学時代の彼氏なんて彼氏っていうほどの彼氏じゃないからさ、まあ友達の延長だよね。というオーラを盾にして会話する。かといって、その事実を忘れられたら忘れられたで拗ねるのだけれど。私は元彼と呼べる人は学生時代の同級生しかいないので、元彼ポジションよりも友達ポジションの年月の方が圧倒的に長い相手に対し、本気でちょっと照れてしまうのだ。

親しい友達の生々しい恋愛話もできれば聞きたくない。子供を産んだ友達とか、旦那様を「主人」と言い始めた友達とか、一足先に大人になっていく友人たちを素直に見れない。自分自身も結婚しているくせに、まだ青春は続いている、私は若いという思いにしがみつきたいというか、あまり所帯染みたくない。中学時代の元彼の話に頬を赤らめることができる自分を、お前はまだそんなレベルに居るのかと呆れながらも、嫌いになれないでいる。

あるいは、中学時代いじめてた側の子のよく聞くセリフ。 「昔、ちょっとヤンチャしてました」 「あの頃は子供だったから」

出会い系ではなく、ペアーズ。援交じゃなくパパ活。言葉をポップにして、事実を事実として認めないまま、時の流れに助けられている。冒頭でも書いたが、果たして中学時代の自分はそこまで子供だったのか。そこまで遠い記憶だろうか。意外と大人では。中学生で人をいじめることができる感覚は、その人自身にたしかに備わっているもので、若さを盾にできるものではないと最近になって思う。だからこそ、大人になっても当時の自分が行った事実を若さやヤンチャという言葉にすり替えられるのだ。

「木陰くんは魔女。」という漫画に

「知らない」のか

胸の奥深くにしまいこんで「忘れてしまっている事」を忘れているのか

考えれば考えるほどわからない

でも 記憶はどこかに隠れているだけで 新しい空気を吸い込んでも 細胞が入れ替わっても 絶対 消えてなんかいなくて

今 この体を動かすのは 確かに存在する ユメの記憶だ

記憶や感情は きっとどこかで永遠になっているよ

というセリフがある。 これを読んだとき「友達であり、元彼の時期もあったけど、今も友達」である彼に「今も友達なのに元彼として扱うのなんか悪い気がする」という幼稚な消化不良との向き合い方がわかった気がした。恋人に限らず、今は疎遠でも当時仲良くしていた友達だって、今仲良くないから友達じゃないのかと言えばそうではない。彼女も彼も、楽しかった学生時代に確かに在った事実。テレビで誰かが発した何でもない一言や、夏の朝の香り、バスから見た景色によってその事実が急に、鮮明に呼び起こされることがある。今まで忘れていたのに、突然。そしてその瞬間は幸せだ。1人でニヤッとしてしまう。それが恥ずかしい思い出だったら、ちょっと落ち込む。10年以上も前の記憶が今の私の日常に入り込み、面白おかしくさせてくれるのは、それが事実だったから。未だに私を恥ずかしくさせ、頬を赤らめさせてくれる。大人になり日々の生活に追われていれば、この種の感情を引き出してくれる出来事は、過去の記憶だけだ。私の心を今でも少しだけざわっとさせてくれる私のかつての友人たちは、ずっと大切だ。