ゆとり主婦のタワゴト

日々思うこと、頭の中のこと、ひっそりと自己主張。

過去の記憶

大人になって気づいたことは、中学生の頃思っていたことと今思っていることは大して変わらないということ。未だに子供じみているのかもしれないし、中学生なんて結構大人なのかもしれない。

中学時代、仲の良い友達と付き合うことになったが、隠して!と言った覚えがある。まあそんなものは即バレるのが当たり前なのだが。好きな人ができた、とすぐに言える友達、堂々と手を繋いで登校する友達を小バカにしつつも、本当は少し羨ましかった。 大人になったいまこそ、その友達を「中学時代の元彼」と冗談で冷やかされても、ノれるようになった。いい大人が、中学時代の彼氏なんて彼氏っていうほどの彼氏じゃないからさ、まあ友達の延長だよね。というオーラを盾にして会話する。かといって、その事実を忘れられたら忘れられたで拗ねるのだけれど。元彼と呼べる人は学生時代の同級生しかいないので、元彼ポジションよりも友達ポジションの年月の方が圧倒的に長い相手に対し、本気でちょっと照れてしまうのだ。

親しい友達の生々しい恋愛話もできれば聞きたくない。子供を産んだ友達とか、旦那を「主人」と言い始めた友達とか、一足先に大人になっていく友人たちを素直に見れない。自分自身も結婚しているくせに、まだ青春は続いている、私は若いという思いにしがみつきたいというか、あまり所帯染みたくない。地元の元彼の話に頬を赤らめることができる自分を、お前はまだそんなレベルに居るのかと呆れながらも、嫌いになれない。

あるいは、中学時代いじめてた側の子のよく聞くセリフ。 「昔、ちょっとヤンチャしてました」 「あの頃は子供だったから」 出会い系ではなく、ペアーズ。援交じゃなくパパ活。言葉をポップにして、事実を事実として認めないまま、時の流れに助けられている。冒頭でも書いたが、果たして中学時代の自分はそこまで子供だったのか。そこまで遠い記憶だろうか。意外と大人では?中学生で人をいじめることができる感覚は、その人自身にたしかに備わっているもので、若さを盾にできるものではないと最近になって思う。だからこそ、大人になっても当時の自分が行った事実を若さやヤンチャという言葉にすり替えられるのだ。

「木陰くんは魔女。」という漫画に

「知らない」のか

胸の奥深くにしまいこんで「忘れてしまっている事」を忘れているのか

考えれば考えるほどわからない

でも 記憶はどこかに隠れているだけで 新しい空気を吸い込んでも 細胞が入れ替わっても 絶対 消えてなんかいなくて

今 この体を動かすのは 確かに存在する ユメの記憶だ

記憶や感情は きっとどこかで永遠になっているよ

というセリフがある。 これを読んだとき「友達であり、元彼の時期もあったけど、今も友達」である彼に「今も友達なのに元彼として扱うのなんか悪い気がする」という幼稚な消化不良との向き合い方がわかった気がした。恋人に限らず、今は疎遠でも当時仲良くしていた友達だって、今仲良くないから友達じゃないのかと言えばそうではない。彼女も彼も、楽しかった学生時代に確かに在った事実。テレビで誰かが発した何でもない一言や、夏の朝の香り、バスから見た景色によってその事実が急に、鮮明に呼び起こされることがある。今まで忘れていたのに、突然。そしてその瞬間は幸せだ。1人でニヤッとしてしまう。それが恥ずかしい思い出だったら、ちょっと落ち込む。10年以上も前の記憶が今の私の日常に入り込み、面白おかしくさせてくれるのは、それが事実だったから。未だに私を恥ずかしくさせ、頬を赤らめさせてくれる。大人になり日々の生活に追われていれば、この種の感情を引き出してくれる出来事は、過去の記憶だけだ。私の心を今でも少しだけざわっとさせてくれる私のかつての友人たちは、ずっと大切だ。