無言の圧力
世の中には、無言の圧力が溢れかえっている。
それは決して圧力という体をなさずに、ある時は思いやりや親しみの中に混じっている。
あえてそうなるように計算し、絶妙なさじ加減で圧力を練り込む技を持つ人もいるけれど、
100%思いやりと親しみだけを込めてくれていても、やはり圧力は存在する。
無言の圧力、一般常識、と呼ばれるもの。
〜したなら〜して当然という論理。
良いとか悪いとか、プラスだとかマイナスだとか、そういう事ですらない。
この電車に乗り込んだのなら、次に乗る電車は決められている。乗換案内で計算した通りの路線と時刻とホームで、タイミングよく乗り継ぎをしなかったのなら、無言の圧力とは、日常の様々なところで出会うことになる。
気の合う親友だった子との長電話でのほんの一言、職場の同僚との雑談、出がけにバタバタしている時のふとした夫とのやりとり、たまたま目にしたCM、本屋にならんだ書籍の見出し…。
乗換がスムーズに済んだ人にとってはなんの意味もなさない言葉の並びが、キオスクでパンを買ったり、トイレに寄ったり、初めての駅で降りる階段を間違えた人々には、魚の小骨のような違和感を感じさせる。最初は小さすぎて気にも止まらない。そのうち勝手に取れるだろう、と。
しかし、時間が経っても取れない。
ならばとご飯を飲み込んでも取れない。手段を尽くしても取れない。
最後は病院へ出向いて抜いてもらうしかなくなる。
そういうものがこの世界には溢れている。
それに気づいて、気持ちよく爽やかに人と交流出来る人は少ない。気づかないことが悪いわけでもない。でも想像することは大事なのだ。
誰かと関わっていく上で最も大切なのは想像力だ。考えること。無言であっても誰かにとっては圧力になり得るものが、日常には溢れていること。
自分を他者に見せるのが、誰でも簡単に出来る世の中になり、それに乗るのであれば、想像して考えなくてはいけない。発する側に立った時は(井戸端会議で喋る順番が回ってくる程小さなことであっても)誰もが想像して考える義務がある。